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額面:五銭
日本銀行券
図案:楠正成像
発行:昭和19年、廃止:昭和28年12月
サイズ:48mm X 100mm
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楠木 正成(くすのき まさしげ、永仁2年(1294年) - 延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。正式な名のりは橘正成(たちばな・の・まさしげ)。幼名は多聞丸。左衛門尉。父は楠木正遠と伝えられる。
河内国石川郡赤坂村(現大阪府南河内郡千早赤阪村)に生まれる。前半生はほとんど不明で、1331年(元弘元年)臨川寺領和若松荘「悪党楠木兵衛尉」として歴史に名を残しており、鎌倉幕府の御家人帳にない河内を中心に付近一帯の流通ルートを支配する「悪党」とよばれる在地の豪族であったと考えられている。
元弘の変で後醍醐天皇の挙兵を聞くと傘下に入り下赤坂城にて挙兵する。後醍醐と正成を結びつけたのは、伊賀兼光、あるいは真言密教の僧である文観と思われる。後醍醐が隠岐島に流罪となっている間にも、大和国(奈良県)の十津川、吉野などで戦った護良親王とともに、河内国の赤坂城や金剛山中腹に築いた山城、千早城に篭城してゲリラ戦法を駆使して幕府軍と戦う。
湊川の戦い(兵庫県神戸市)で足利直義の軍と戦い敗れて戦死、弟の楠木正季と刺し違えたとされる。
1559年(永禄2年)、正成の子孫と称した楠木正虎によって朝敵の赦免を嘆願され、正親町天皇の勅免を受け朝敵でなくなり、また江戸時代には水戸学の尊皇の史家によって、忠臣として美談化されはじめる。江戸時代後期には尊皇家によって頻繁に祭祀されるようになり、その動きはやがてのちの湊川神社の創建に結実し、他方で靖国神社などの招魂社成立に大きな影響を与えることとなる。明治になり南北朝正閏論を経て南朝が正統であるとされると大楠公と呼ばれ、講談などでは『三国志演義』の諸葛孔明の天才軍師的イメージを重ねて語られ、修身教育でも祀られる。戦後は価値観の転換と歴史学における中世史の研究が進むと悪党としての性格が強調されるようになり、吉川英治は『私本太平記』の中で戦前までのイメージとは異なる正成像を描いている。
紙幣の楠木正成像(上記の写真と同じ)
東京都千代田区皇居外苑の二条橋近くにある楠木正成騎馬像。1897年(明治30年)財閥住友家が、別子銅山開業200年記念として採掘された銅を鋳造して献納した、高村光雲主任とする4人の彫刻家による合作。靖国神社の大村益次郎像、上野公園の西郷隆盛像と共に東京三大銅像とされる。
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